知多半島から、狐が姿を消してから久しい。 昨年、十二月に岡田地内で、狐が交通事故死した。その写真を見せられたとき、岡田地区には、狐が食物連鎖の頂点に立てる自然環境が残されているか。思わず席を立って、狐の事故死現場付近の里山を見に行った。 尾根周辺に高圧線の林立した里山が、東の佐布里、草木地内から、西方の南部臨海工業地帯へと連なっていた。 後日、写真の撮影者でもある元市議会議員の相馬誠一さんの案内で里山に足を踏み入れた。太平洋戦争中に開墾された畑地は、ミカン畑、畑、草地となって残っていた。開発が急ピッチで進む半島北部で、狐の生息が可能であった事実を記録に留めねばと思った。 題名は、「ごん狐」の最後の描写の語調とごんの死を連想させる写真の狐の死顔からつけた。雑学は楽しい。ごんよありがとう。聞いてみたい。如何にして種を保全したか。と。
書籍40/410
この書籍は2010年12月15日(水)に登録されました。